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2024/07/05

下ノ畑

東北の岩手県花巻市へ行ってきました。
目的は宮澤賢治のゆかりの地を訪ねることでした。
特に心が動かされたのは「賢治自耕の地」と呼ばれる賢治が晩年ひとり自炊生活をしながら過ごした家の傍にあった畑でした。現在、家は岩手県立花巻農業高等学校の方に移築されて畑だけが保存の会の方々によって残されています。朝早くその場所に出かけていって2時間ほど鳥たちの声を聴きながらぼーっとして過ごしました。とても気持ちのいい時間でした。
僕の考える賢治は、世界に境界線を引かない人。それによって彼の生き方は困難に見舞われたと思います。
質、古着商を営む裕福な家に生まれた賢治は、当時の地方の困窮を極める農村の暮らしに心を痛めながら、彼らと同一化するために苛烈とも思われる試行錯誤を繰り返した一生だったと思います。
賢治ほど巨大な作家になると様々なイメージが出来上がり、その中には聖人君主のような浮世離れしたイメージも存在します。ですが賢治の作品に触れてみると、ドロドロしていたり毒気のある人間の内面の叫びが見受けられ、実に僕らと変わらない人間的な印象を感じます。賢治の過ごした畑に身を置いてみると、賢治がなぜここで過ごしていたかわかる気がしました。自分の中のドロドロした感情に向き合うしんどさを自然の中に身を置くことで和らいでいたのかも知れません。太陽が降り注ぎ、風が吹き、鳥や虫たちは本当に可愛らしく、そこには邪心のようなものは感じません。自分の中の無垢な心はもともと存在し、それを自然が見出してくれるのです。そこには善悪もなく、境界線のない自然そのものの世界です。
自分もこんな気持ちでいれたらどんなに安らかだろうと思いました。
自分の仕事も、solariにおける空間が、自分にとっても、そこに来るお客様にとっても、この賢治の畑のようにありたいなと思いました。

下ノ畑2
下ノ畑2
下ノ畑3
下ノ畑4

2024/05/15

科学と慈愛

ピカソの若き日に描いた「科学と慈愛」という作品がある。重い病にかかった患者が、中央のベッドに横たわっている。その傍らに医者と赤ん坊を抱く修道女が付き添っている構図になっている。
医者は科学を表し、修道女が慈愛を表しているこの作品はやや概念的とも言えるが、この作品をピカソ本人が終生大事にしていたということがとても気になる。
医者は父性の象徴で、修道女は母性の象徴とも考えられる。男性性と女性性は違った性質のものだと思うが、世界もしくは宇宙はそうした違った性質の両者の調和、均衡のもとで成り立っているのかもしれない。
最近、相反するもののバランスについて考えることがよくある。
整体においても、体と心に触れることから物理的な論理や構造と、物理的に触れることのできないものに対して感応していく感性の力の両方を磨いていく必要性を強く感じるようになった。
良い施術は、そうした論理と感性が一体化した瞬間なのかな、などと考えている。
最近観た坂本龍一氏の生前最後の演奏を記録した映画「Ryuichi Sakamoto/opus」で彼はまるでピアノと一体化しているようだった。一音一音に気がこもり、こちらの心の奥の方まで響いてきた。彼の最後の演奏を聴いて、彼がもともと論理的な思考力と、稀有な感性の持ち主であったことと、東洋と西洋の旋律を融合し、相反しているものを見事に調和させている表現者であったことがよく理解できた。
ほど遠いとはいえ、この演奏のような仕事ができたらなと思った。

科学と慈愛2
科学と慈愛2
科学と慈愛3
科学と慈愛4

2024/04/04

自然に回帰する

芸術表現と整体は、その本質が人間の探求である点において、根っこは同じなのかなと思っています。
僕の考える整体は、自分自身の内側を見つめ、自立した自分を目指すことです。
身体に触れ、奥底にある要求を、術者も受け手も一緒に感じること。
出来るだけ余計な事はせず、身体と心の声に集中する。
近代以前は、そうした整体の在り方が身近にあったようなのですが、テクノロジーの発展に伴い、人々の価値観は変わり、生活の中から徐々に姿を消していったのだと思います。
それでも、子どもの頃に怪我をした際、親から「痛いの痛いの飛んでいけ~!」と手当をされた事があるでしょう。不思議と安心し、知らぬ間に怪我は治っていたと思います。
ITやAIなどの非人間的なテクノロジーに囲まれ過ぎてしまったことで息苦しさを感じている人も多いと思います。
そんな時代になった事で、前時代の整体の在り方を人々は、心のどこかで欲しているような気がします。

昨年亡くなった坂本龍一さんは、電子テクノロジーの発展に伴って隆盛を極めましたが、晩年は自然に回帰し、自然とテクノロジーが共存する楽曲を目指しました。
時代の風にもともと敏感だった彼ですが、東日本大震災の影響は大きかったように思います。
津波を被って調律の狂ってしまったピアノとの出会いをきっかけに、人間による人間だけのために調律された反自然的なピアノの音から遠ざかり、津波を被ったことで自然に帰ろうと調律を狂わせたピアノの音に自身を重ね、向かうべき方向性を見出したようでした。
そうして制作された「async」というアルバムは、非同期という意味で、皆が一つの大きな音に合わせるのではなくて、それぞれバラバラのままの音で共存するということを試みた作品になりました。
人間が自然から遠ざかり、人間らしさを放棄していく事への危惧を彼はしていたのだろうと思います。

テクノロジーの発達はこれからも加速していくと思いますが、先人たちの残したものに触れながら、自分のやり方を探していきたいと思っています。

自然に回帰する2
自然に回帰する2
自然に回帰する3
自然に回帰する4